みんなのお金ドットコム | お金のコトをもっと身近に
2019/03/01

徳川家康の21人の妻|妻選びの基準や最も愛した妻とは?

天下統一を果たし、その後の江戸幕府の礎を築いた徳川家康には、21人の妻がいたと伝えられています。
長きにわたる徳川家の繁栄の裏には、こうした妻たちの存在があってのことだったのではないでしょうか。

徳川家康が妻として選んだ女性たちに共通することとは、そして最も愛した妻とは。
徳川家康の21人の妻たちについて、ご紹介しましょう。

Large will h mcmahan 622545 unsplash
目次

徳川家康は妻が多い?

戦国の世の中は、知略・謀略、食うか食われるかのすさまじい時代でした。
昨日の友は今日の敵。誰も信じられないなか、血縁や婚姻関係だけがよりどころでした。
また、多くの血縁を結ぶことで、諸大名は盤石の地盤重ねに奔走したのです。

徳川家康もその一人でした。
その生涯で、正室こそ2人でしたが、わかっているだけでも側室を19人も持ち、実子が16人、猶子が1人、養子が21人と、合計で38人もの子供を持ったといわれています。

そして、この側室の数と子供の数が、後の徳川幕府に基盤となって、265年という世界的にも珍しい安定政権をもたらしたといえます。

<下に続く>

徳川家康の妻選びのポイント

徳川家康の妻と武将

ポイント①出産経験のある女性

数いる側室の中で、目立つのが出産経験のある女性の多さです。
徳川家康は、「後家殺し」などと陰口をたたかれることもありました。
確かに、徳川家康は、幼い頃より人質として転々と流浪しており、母の愛情をたっぷりと注がれたという記憶はないはずです。
そのため、どちらかというとマザコンの気があったのかもしれません。

しかし、別の見方をすれば、出産経験があるということは、子供が生めるという証拠にもなります。
確実に子孫を残していくという意味では、非常に堅実な選択肢といえるでしょう。

ポイント②健康な女性

これは、出産経験のある女性にも関係してくることです。
美しくても、頭がよくても、体が弱ければ子をなすことはできません。
さらに、この時代は医学も発達していませんでしたから、短命の人が多かったのです。

徳川家康自身も、健康には十分注意しており、この時代としてはとても長生きだったのです。
女性も、病弱よりは、健康的でパワフルな女性を好んだのでしょう。

ポイント③身分の低い女性

徳川家康の側室の出自には、その頃としては、特徴があります。
戦国時代は、とにかく力のある諸大名とのつながりを持つことが生き残ることでした。
また、ブランドとして、公家や位の高い家の息女を側室にすることが多かったのです。

しかし、徳川家康は、あまりそういったブランドにはこだわらなかったようです。
一説には、最初の妻である築山殿が主君今川義元の姪に当たり、あまりにもプライドが高すぎて手に余ったことへのトラウマではないかと囁かれています。

いずれにせよ、徳川家康の側室の身分は、それほど高いものではなく、奥付きの女中や農家の後家といった女性も含まれています。

ポイント④若い女性

後家好み、年増好きといわれていた徳川家康ですが、50歳を超えるあたりから、徐々に若い女性を側室にするようになります。
マザコンというトラウマから解放されたのか、あるいは自分の衰えを感じて、元気な子供を産むのは、やはり若い女性がいいと思い始めたのかもしれません。

お勝ちの方は13歳、お万の方は16歳で徳川家康の側室になっています。

<下に続く>

徳川家康の21人の妻たち

徳川家康妻と群像

では、徳川家康の妻をみていきましょう。
徳川家康の妻は、以下の通りです。

  1. 築山殿(つきやまどの)
  2. 小督局(こぼうのつぼね)
  3. 西郷局(さいごうのつぼね)
  4. お勝の方
  5. 旭姫(あさひひめ)
  6. 茶阿局(ちゃあのつぼね)
  7. 阿茶局(あちゃのつぼね)
  8. 西郡局(にしごおりのつぼね)
  9. お竹の方
  10. 下山殿(しもやまどの)
  11. お松の方
  12. お仙の方
  13. お牟須(おむす)
  14. お亀の方
  15. お久の方
  16. お万の方
  17. お奈津の方
  18. お梅の方
  19. お六の方
  20. 富子
  21. 三条氏の方

続いて、徳川家康の妻を、それぞれ詳しくみていきます。

妻①:築山殿(つきやまどの)

今川義元の姪で、徳川家康の最初の妻となる人です。
主君の姪ということもあり、徳川家康としても頭が上がらない存在だったのかもしれません。

今川家が滅亡し、織田信長が飛ぶ鳥を落とす勢いになったとき、徳川家康は信長と同盟を結びます。
これを築山殿がよしとするわけはありませんから、夫婦仲は冷え切ったものになっていたのかもしれません。

結局は、信長の命により自身の手で、築山殿との子、長男・信康ともども処刑することとなります。

妻②:小督局(こごうのつぼね)

徳川家康の最初の側室といわれている女性です。
もともとは、築山殿の侍女であったのを、家康が見初められたという形になっています。
家康の二男である結城秀康の生母です。

なぜか、母子ともに家康からは疎まれていたようで、子の認知まで3年もかかったといわれています。
これは、小督の局が奔放な女性で男性関係が激しく、家康自身も確実に秀康を自身の子供と確信できなかったからともいわれています。

妻③:西郷局(さいごうのつぼね)

下級武士と一度結婚しており、一男一女をもうけますが、戦で夫に先立たれてしまいます。
そんななか、17歳のとき、徳川家康に見初められて、側室となります。

非常に美人でしたが、それをひけらかすことなく、側室に迎えられたことに感謝の気持ちを持って家康に仕えたといいます。
また、おおらかな性格で家臣や侍女たちからも慕われたといいます。

三男・秀忠と四男・松平忠吉の生母となりますが、28歳という若さで亡くなったこともあり、あまり江戸幕府への影響を持つまでには至りませんでした。

妻④:お勝の方(お梶の方)

お勝の方は、初めはお梶の方と呼ばれていました。
非常に才気のある女性で、徳川家康とともに、関ケ原の戦いや大坂の陣でも男装姿で騎乗して出陣したそうです。

関ケ原の合戦でお梶の方を伴い勝利した家康は、「この勝利はお梶がいたからだ」といってその時を境に「お勝」と改名したといいます。
妻であり、参謀の一人でもあったお勝の方は、徳川家康の死後も、その存在は大きかったそうです。

妻⑤:旭姫(あさひひめ)

豊臣秀吉の妹で、徳川家康の継室として嫁ぎます。
いわゆる政略結婚の典型ともいえるもので、旭姫は元旦那と強制的に離縁させられ、徳川家康の元に輿入れするのです。

そんな経緯ですから、お互い夫婦としての生活が成り立つわけもありません。
その後、母である大政所の病気見舞いを理由に、京都の聚楽第に住み、その一生を終えています。
旭姫以降、徳川家康は正室を持ちませんでした。

妻⑥:茶阿局(ちゃあのつぼね)

茶阿局は、徳川家の六男・松平忠輝と松千代の生母になる人です。
もともとは既婚者でしたが、土地の代官に言い寄られ、それを断ったがために夫を殺されてしまいます。
そのことを娘とともに家康に直談判し、その肝の太さと、それにも増す美貌にすっかり家康は虜になってしまうのです。

家康は、なぜか六男・松平忠輝に冷淡でした。
生まれてからすぐに、今の栃木県である下野(しもつけ)に預け、その後も死ぬまで母との面会を許さないなど、茶阿局としては寂しい限りだったことでしょう。

妻⑦:阿茶局(あちゃのつぼね)

側室の中で最も頼りにされていたといわれています。
出自は、武田信玄の家臣であった飯田直正の娘として、甲府で生まれています。
一度、結婚し子どもを成していますが、死別して25歳のときに徳川家康の側室となります。

その美しさだけでなく、馬術や武術にも優れた女性だったといわれ、戦場にも伴ったそうです。
世継ぎである徳川秀忠や松平忠吉の養育を担当し、奥向きのさまざまなことを采配した女性でした。

妻⑧:西郡局(にしごおりのつぼね)

西郡局は、今川家の家臣である鵜殿長持の娘です。
その後、鵜殿長忠の養女となり、上ノ郷城落城のあと人質として家康の元に出され、側室となりました。

このとき、正室である築山殿はまだ人質として駿府に居たため、西郡局は正室よりも早く岡崎城に入っています。
その後、徳川家康の二女にあたる督姫(とくひめ)を生んでいます。

妻⑨:お竹の方

お竹の出自は、武田家の家臣であった市川家、あるいは武田信玄、穴山信君、秋山虎康の娘と諸説あります。
家康が信玄公ゆかりの姫を探していると聞きつけた市川家が、お竹を伴って拝謁したことが側室へのきっかけだといわれています。

お竹の顔つきは、信玄公によく似ているともいわれ、家康も生前、お竹の方に信玄公の面影を見たといわれています。
家康の三女、振姫(ふりひめ)の生母といわれていますが、定かではありません。

妻⑩:下山殿(しもやまどの)

下山殿の出自は、甲斐の名門の秋山家で、家康の側室の中においては、もっとも格式の高かったといわれています。
五男・武田信吉の生母で、「秋山夫人」とも呼ばれました。

穴山梅雪の養女となり、梅雪の弟の信邦に嫁ぐも、武田家滅亡後に徳川家康の側室となります。このとき、下山殿は16歳といわれています。

妻⑪:お松の方

お松の方の出自は、はっきりしません。一説には、徳川家康の落胤(らくいん)である松平民部の生母ともいわれています。

落胤というのは、身分の高い男性が身分の低い女性に産ませた子供のことで、正式な系図に記されていないことが多く、お松の方の資料もほとんどありません。

妻⑫:お仙の方

旧武田家家臣であった宮崎康景の娘として生まれ、家康に見いだされて奥勤めとなります。
家康との間に子供をもうけることなく、駿府で没しています。

妻⑬:お牟須(おむす)の方

旧武田氏の家臣である三井氏の娘として生まれました。武田家滅亡とともに家康の側室となりました。

豊臣秀吉の朝鮮出兵のおり、お牟須の方も肥前名護屋に留守居役として赴いた家康についていきます。
そこで懐妊するのですが、死産の上、本人も命を落としてしまいました。

妻⑭:お亀

山城の国志水氏の娘として生まれました。
すでに結婚しており、一児の母でありましたが、夫と死別し、奥勤めに入ります。
しかし、石川光元の側室となり一児をもうけますが、正室の嫉妬によって実家に戻されてしまいます。

その後、家康に見初められて側室となり、家康9番目の男子である徳川義直の生母となります。
義直は、尾張徳川家の祖として、徳川御三家の一翼を担います。

妻⑮:お久の方

北条市の急伸の娘と伝えられています。家康との間には四女である松姫をもうけたといわれています。
しかし、松姫はわずか4歳で夭逝してしまいます。

お久の方は、家康逝去の翌年に駿府城で亡くなっています。

妻⑯:お万の方

戦国武将である正樹頼忠の娘として生まれました。
16歳くらいの頃、三島の宿で女中をしていたときに家康に見初められて側室になったと伝えられています。
後の紀州徳川家の始祖である徳川頼宣と、水戸徳川家の始祖徳川頼房の生母です。

信仰の篤い女性で、日蓮宗を信じていました。
そのときの僧であった日遠(にちえん)を師と仰ぎ、家康が日遠を死罪にしようとしたところ、「師を死罪にするなら、私もいっしょに死にます」と死に装束を縫い始めたといいます。
それに驚いた家康が、日遠を無罪放免にしたというエピソードが残されています。

妻⑰:お奈津

伊勢の浪人であった長谷川氏の娘として生まれました、
お奈津が16歳のとき、かねてより、信頼のおける女中を探して欲しいと家康に頼まれていた茶屋四郎次郎に見出されました。

二条城で家康が入浴中に刺客に襲われそうになったとき、お奈津が機転を利かせて家康を危機から救ったことから、側室となりました。
その後も、天性の女丈夫を発揮して家康を支え続けます。

家康が死んだ後も、徳川家光を支え、80歳の生涯を全うしました。
その功績を讃えて、お奈津の方は、側室の中では唯一、小石川伝通院の徳川家の墓所に祀られています。

妻⑱:お梅の方

豊臣家の家臣であった青木一矩の娘として生まれました。
家康の外祖母である、お富の方が叔母にあたったことから奥勤めとなります。

家康の側室になったのは、家康59歳の時で、お梅の方は、まだ15歳という若さでした。
その後、本田正純の継室となっています。

妻⑲:お六の方

旧今村家の家臣、黒田氏の娘として生まれました。
もともとはお勝の方の雑用係として仕えていましたが、家康の側室となりました。
家康との歳の差は、なんと55歳で、家康が没したときには20歳だったといいます。
さすがに家康も老域に入り、二人の間に子を成すことはありませんでした。

お六の方は美しく、その上、歌道にも通じており、たいそう家康にかわいがられたといいます。
家康が亡くなったとき一時は仏門に入りますが、あまりにも若いということで、後に還俗して、河内守義親に嫁ぎます。
しかし、家康公の年忌法要で日光東照宮に詣でたとき、社前で急死してしまいます。
まだ29歳の若さだったといいます。

妻⑳:富子

徳川家康の側室、富子に関しては、ほとんど資料が残っておらず、出自は不明です。
一説には、山田氏の娘とされており、家康死後、出家後の名は信寿院といいます。

妻㉑:三条氏

三条家の娘とされていますが、出自に関しては、ほとんど記録に残されていません。
徳川家康の落胤、小笠原権之丞の生母と伝えられていますが、不明なことが多い女性です。

<下に続く>

徳川家康が最も愛した妻とは?

徳川家康が最も愛した妻に関しては、諸説あり、また当の本人に聞いてみなければわかりません。
しかし、残されたエピソードなどから判断すると、最も激動の時代に近く置いた側室は、阿茶局でした。

美しいだけでなく、馬術や武術にも優れ、小牧・長久手の戦いでも陣中に同行しています。
大坂の陣では、本田忠純とともに徳川家の代表として、和議の場にも参加し、交渉にあたっています。

家康との間に子は成しませんでしたが、世継ぎである竹千代と於次の養育係となります。
家康が亡くなったあとも、その才覚を惜しまれて仏門に入ることなく、屋敷を与えられ、徳川家のサポートをし続け83歳で人生の幕を閉じた女性です。

<下に続く>

徳川家康は妻が多いが子供も多い?

徳川家康の妻と城

記録に残っている子供の数としては、実子として息子が11人、娘が5人います。
また、そのほかにも猶子(ゆうし)が1人、養子として男子3人、女子19人で合計38人になります。

多くの側室を持つということは、多くの子を成すということです。
徳川家康は、たくさんの子孫を残すことによって、血脈を広げていき、江戸幕府の基礎を盤石なものにしていきました。

<下に続く>

徳川家康の妻選びには、学ぶべき点も多し

正室、側室を21人も抱えて、やっぱり徳川家康は「エロ爺」だと思うのは、ちょっと早計かもしれません。
時代背景を考えれば、家康の時代は、まだまだ日本が統一されたとは言い切れず、群雄割拠の真っただ中でした。
まだまだ、盤石とはいえず、血縁関係を広げるというのは、徳川家が生き残るための手段でもあったわけです。

徳川家康は、妻選びでも、とても合理的な考え方を持っていたのではないでしょうか。
容姿や家格などについてよりも、むしろ健康でたくさん子どもを産める女性を好んで側室にしました。
また、プライドが高い女性よりも、かわいげがあって、質素、そして頭の良い女性が好みだったようです。

徳川家が繁栄したのは、こうした女性たちの力があってこそだったのかもしれません。

Thumb minkane logo
written by
「お金のコトをもっと身近に」というミッションで、みんなのお金ドットコム(みんかね)を運営しています。 投資・節税・保険・ローン・クレカ・節約などのテーマの情報を各領域の専門家や編集部を通して記事配信していきます。
関連記事
おすすめ記事
Logo
みんかねの
おすすめ記事がLINEに届く!
Add line
Logo
みんかねの
おすすめ記事がLINEに届く!
Add line