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2017/12/04

ロシア革命の指導者レーニン!演説・四月テーゼやスターリンとの違い

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ロシア革命の指導者レーニンとは?

レーニンが指導し、世界で最初の社会主義国家誕生のきっかけとなった1917年のロシア革命から100年が経過しました。

今回は、ロシア革命を中心に、演説が上手だったと言われるレーニンについて、またレーニンのあとを継いだと言われるスターリンについても少し紹介します。

「レーニン」は「レナ川の人」を、「スターリン」は「鋼鉄の人」を意味するペンネームをそれぞれ名乗っていましたが、2人にはどんな違いがあるのでしょうか。

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レーニンの生い立ちや経歴

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レーニンは本名をウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフと言い、1870年、モスクワから東へ893km離れたヴォルガ河畔のシンビルスク(現ウリヤノフスク)にて、物理学者の父とドイツ・スウェーデン系ユダヤ人の母の間に生まれました。

また、父方の祖父は解放農奴出身の仕立屋で、曽祖父はモンゴル系カルムイク人であり、幾つもの民族や文化が混じる一家でもありました。

レーニンが12歳の年、父の学者としての活躍が皇帝に評価され貴族に列せられました。

一方で、父は貴族の地位に甘んじず奴隷や貧困といった階級問題を息子達に伝え、レーニンを含む兄弟姉妹のほとんどが革命家となったのはこの影響がベースにあったと言えます。

聡明な兄弟姉妹の中でも特にレーニンは神童の誉れが高く、シムビルスク古典中高等学校を全学科全学年を通じて首席で卒業し、父の母校であるカザン大学に入学しましたが、兄のロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画参加のために絞首刑にされた出来事より、レーニンは学生活動に参加、同年末に逮捕されカザン大学を退学しました。

しかし、秀才ぶりが功を奏し、兄の母校サンクトペテルブルク大学の難関国家検定試験で高成績を収め、試験官の強い推薦を受け政治事情が免除され、第一級の学士を取得、その後は知人が経営する法律事務所で弁護士補として働きましたが、担当した仕事は2件のみと言われています。

その後マルクス主義運動家として活動しはじめましたが、逮捕・投獄、シベリア流刑となり、刑期終了後、国外に亡命しました。

『帝国主義論』など数々の書籍を著し、亡命先のヨーロッパ各地から「ボリシェヴィキ」と呼ばれたロシア社会民主労働党を指導しました。

1917年の二月革命の際、「封印列車」でスイスから帰国し、「四月テーゼ」によりソビエト共和国樹立の目標を提示しますが、弾圧がひどくなり一時フィンランドへ亡命します。

その後、革命的情勢の強まったペトログラードへひそかに戻り、「十月革命」を指導、ソビエト権力の樹立を成功させ、初代人民委員会議議長となり、革命的諸方策の実施にあたりました。

1921年には国際革命の退潮と国民の疲弊に応じてネップ(新経済政策)への転換を指導し、新国家建設の舵取りを行なおうとしましたが、1922年に脳溢血で倒れ、闘病生活の末1924年に、世界で初めて成功した社会主義革命(ロシア革命)を主導した54歳の生涯を閉じました。

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ロシア革命におけるレーニンの演説、「四月テーゼ」とは?

ロシア革命は、第一次世界大戦の最中に、労働者階級の人々が帝国主義戦争を内乱に転化させた社会主義革命であると言えます。

そして、その革命の方向性を決定的にしたのがレーニンの四月テーゼです。

1917年4月、亡命先のスイスから帰国したレーニンがペトログラードで歓迎する労働者に向かって「当面する革命におけるプロレタリアートの任務」と題して演説し、翌日その内容をまとめ『プラウダ』紙に発表したものが「四月テーゼ」です。

当初このテーゼは、仲間であるボルシェビキ含め激しい批判を浴びましたが、「すべての権力をソビエトに」のスローガンとともに党の「行動綱領」として採択されました。

特にロシアの現状をブルジョア(貴族階級)の民主主義革命)からプロレタリア(労働者階級)の社会主義革命へ移行したと評価したこと、加えて新しいロシアの国家体制を「ソビエト共和国」と想定したことはレーニンの先見の明的な見解であり、二月革命でのロマノフ朝崩壊以後、臨時政府との二重権力の状況で明確な方針を失っていたボルシェビキに新しい指針を与えることになりました。

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レーニンとブレスト=リトフスク条約

「四月テーゼ」後、レーニンが指導したボリシェヴィキは、配下の労働者や兵士が立ち上がり、1917年11月に臨時政府を打倒しました。

ボリシュヴィキも属するソビエト会議は、臨時政府に代わるソビエト政権の成立を宣言し、1918年1月の憲法制定議会解散により、ボリシェヴィキ独裁が始まりました。

そして、ソビエト政権は労働者階級悲願の第一次世界大戦からの離脱を無併合・無賠償・民族自決のという方法にて戦争終決を決めました。

その時にドイツ・オーストリア=ハンガリー・ブルガリア・トルコの同盟側4国代表とソビエト政権(ロシア)が「ブレスト=リトフスク(現在のベラルーシのポーランド国境の都市)」という場所で結んだ単独講和条約が「ブレスト=リトフスク条約」です。

これにより、ソビエト(ロシア)とドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国の4カ国は直ちに停戦しましたた。

なお、ソビエト(ロシア)はこの条約で、ポーランド、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国などの諸地方を放棄し、フィンランドから撤退し、ウクライナの独立を認め、ザカフカースの一部をトルコに譲ることとなりました。

この喪失は、領土としては合計320平方kmとヨーロッパ史上未曾有のことであり、また人口としては約3分の1、さらには最大の穀倉地帯、石炭・鉄・石油などの近代的工業中心地などを失うこととなりました。

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レーニンが創設したコミンテルンとは?

「コミンテルン」は正式名称を「共産主義インターナショナル(英語でCommunist International)」と言い、第3インターナショナル(第3インター)とも呼ばれました。 第1インターナショナル (1864~1876) 、第2インターナショナル (1889~1914) の崩壊後、レーニンによって1919年に設立され、第2インターナショナルに比べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、当初は「世界革命の実現を目指す組織」とされ、ソビエト政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶ役割、一方コミンテルンは各国の革命運動を支援する役割、という使い分けがなされ、ソビエトという社会主義国家を支柱とするに至りました。

しかし、レーニンの死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソビエトの外交政策を擁護するのが中心になっていきました。

そして、1943年5月 、国内および国際情勢が複雑化し、各国共産党が著しく独立性を強めたため、コミンテルンは解散しました。

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レーニンと戦時共産主義、ネップ

「戦時共産主義」とは、レーニンがソビエト政権を確立後、反改革政権側との内戦、さらにはブレスト=リトフスク条約に関係していなかったイギリス、フランスなどの連合国側からの干渉戦争に直面した際、これらに勝ち抜くためにソビエト政権がとった経済政策を言います。

具体的には、農民に穀物の余剰生産分を強制的に供出させる「穀物独裁」が実施され、市民の食糧は配給制となりました。

また工業に関しては、大工場から小工場に至るまで国有化の方針が進められました。

その結果、貨幣は必要ないものとされ、労働者の報酬は現物となり、農民、労働者の労働意欲をいちじるしく後退させ、生産の停滞を招くこととなりました。

一方で1921年に、それまでの「戦時共産主義」に代わって部分的に市場経済を容認した「NEP(ネップ)」と呼ばれる新経済政策がレーニンにより施行されました。

この政策転換によってロシア経済は息を吹き返し、財政の安定化が図られ、経済の復興に成功しました。

また、この市場経済容認への転換は、ソビエト政権と資本主義国との関係をも好転させ、第一次世界大戦後の最初のヨーロッパ経済復興国際会議であるジェノヴァ会議に招請され、その場でドイツ共和国との国交を樹立するなど国際社会においても関係復興につながりました。

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レーニンとスターリンの違い

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レーニンは、あらゆる人が証言するほど飾り気のない率直な性格でした。また、外面的にも人目を引く華やかさが少なく、多くの人々を指導する偉大な人物でありながら庶民的で、謙虚な印象を与える人物であったとも言われています。

一方スターリンは、レーニン率いるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派による十月革命に加わり、ソビエト連邦政府およびソビエト連邦共産党の成立に深く関与し、1924年、レーニン死後に起きた後継者争いを制し、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会書記長に権限を集中させることで後継者としての地位を確立した人物です。

スターリンは冷酷で残忍であり、極度に人間不信で疑り深く臆病な上に、権力欲と顕示欲が強い性格であったと言われています。

出身地がロシア帝国の支配下にあったグルジアであったため、彼は元来、少数民族としての引け目を持ち、幼少期に遭遇した病気や事故により身体的劣等感があり、職人気質の父親からの虐待、信心深い母親からの厳しい教育、愛した妻の死などで、次第に性格は複雑になり、表面上の堂々とした雰囲気とは真逆の残虐性や冷徹さを兼ね備えた人物になっていったとも言われています。

彼のとった行動にそのような性格が顕著に表れており、巧みに権力の中枢にのし上がった後は、自分のことを少しでも悪く言った者はもちろん、戦争で捕虜として捕らえた兵士たちもスパイかもしれないと殺すなど、粛清によって統治する恐怖政治を行いました。

レーニンは今でもロシアの人々に「近代ロシアの父」と見られているのに対し、スターリンは「偉大な国家指導者」という評価と「恐るべき独裁者」という評価が混在しています。

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【コラム】ロシア革命とは何なのか?

ロシア革命は、広義には1905年の第一次革命を含めた長期の革命運動を意味し、約200年程続いたロシアの皇帝専制政治の打倒から、社会主義国家が建設されるまでの連続的な革命のことを指します。

1905年の第一次革命は、日露戦争の中止、労働条件の改善、国民議会の開催などを直接皇帝に願い出ようと労働者たちがペテルブルクの王宮に平和的なデモ行進をしたところ、警備の兵士に発砲され多数の死傷者が出た「血の日曜日」という事件がきっかけとなります。

この事件によって市民の皇帝への信頼は一気に失望へと変わり、ロシアのいたるところで労働者や農民たちがストライキを蜂起して抗議をするようになります。

これに対し皇帝側は十月宣言として立法権を持つ国会の開設や基本的人権の付与を約束し、いったん終息しますが、第一次世界大戦が始まり、再び国民の怒りが爆発しました。

なぜなら、戦争が始まると各国本国優先となり、そのため外国からの資本がロシアに注入されなくなり、ロシアでの産業が停滞しました。さらに多くの農民らが兵士として動員されたため農産物の供給が激減、食料価格が高騰しました。

これにはさすがに主婦も怒り、1917年3月に首都のペトログラードで暴動を起こしたのをきっかけに、その後各地でデモやストライキが広がりました。

そして遂に労働者と兵士の代表による評議会「ソビエト」が結成され、首都の支配権を握るとニコライ2世は退位を余儀なくされ、帝政ロシアの時代は幕を閉じることとなりました。

これが第二次ロシア革命の一つである二月革命です。
その後、労働者や兵士が集結したソビエトと政権運営を担った資本家や立憲民主党による臨時政府との二重権力状態となりました。

当初は、ソビエトも臨時政府を支持していたものの、臨時政府がとった第一次世界大戦を継続するという政策は相いれないものであり、対立の様相になりました。

そして、レーニンの「四月テーゼ」に労働者や兵士たちは奮起しました(七月事件)。

しかし、この動きは臨時政府により鎮圧され、レーニンはフィンランドへ逃亡することとなります。

その後、ロシア帝国の復興を企んだ帝政派の将軍・コルニーロフの反乱が起き、この反乱を鎮圧するために、臨時政府の首相ケレンスキーはレーニン率いるボリシェヴィキの力を借りました。

この反乱の鎮圧に貢献したボリシェヴィキは勢力を回復し、これを臨時政府打倒の機と見たレーニンは再び武装蜂起し、見事に臨時政府を倒しました。

この十月革命と呼ばれる出来事により、世界初の社会主義国が誕生することになります。

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【コラム】レーニンの死体は保存されている?

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レーニンは暗殺未遂の後遺症、また戦争や革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始め、静養をするものの、その甲斐なく1924年1月に4度目の発作を起こして亡くなりました。

検死の後、レーニンの遺体はマイナス4度の冷凍状態に保たれて赤の広場のホールにまつられ、4日間で約5万人の群衆の弔問を受けたと言われています。

そして、真冬のモスクワの寒さの中、霊廟の棺の中で保管されていたレーニンの遺体は、死後56日目に、恒久的に保存することが政府によって決定されました。

当初はドイツの特別な冷凍設備による保存が検討されていましたが、ソ連の科学者から遺体を乾燥させて防腐処理することで腐敗を防ぐ方法があることが報告されると、防腐処理による保存に切り替えられることになりました。

赤の広場にレーニン廟が建設され、1924年8月1日にオープンすると、訪問者たちは死んでいるとは思えないレーニンの遺体の状態の良さに歓声を上げたそうです。

死後90年以上となり、ソ連崩壊後の現在もロシアによって管理されているレーニンの遺体ですが、費用が高額なことから、もはや維持をやめ遺体を埋めるべきではないか、という意見も現れ始めているようです。

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ロシア革命の指導者レーニン!演説・四月テーゼやスターリンとの違いのまとめ

1917年までロシア帝国の首都であったぺトログラードはロシア革命後、レーニンにちなみレニングラードと改名されました(現在ではサンクトペテルブルク)。

また、レーニンの生地のシンビルスクも彼の本名にちなんでウリヤノフスクと改名されました。

レーニンが指導したロシア革命から成立したソビエト連邦は、69年後の1991年12月に崩壊しました。

もし、レーニンが生きていたら、何を思うのでしょうか。

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