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2018/01/07

ゴルバチョフ書記長の政策ペレストロイカやソ連崩壊まで

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ゴルバチョフとは?

ソ連最後の指導者で、日本人からも「ゴルビー」の愛称で親しまれたのがミハイル・ゴルバチョフでした。そのソ連邦の書記長と大統領を務めた彼の行った政策がペレストロイカでしたが、どのようなものだったのでしょうか?

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ゴルバチョフの生い立ちと経歴

ミハイル・ゴルバチョフは1931年の3月2日に北カフカスのスタブロポリ地方の農民の子として生まれました。幼少時はスターリンの大粛清やドイツとの戦争での父の死、そしてドイツ軍の占領などさまざまな苦難を経験しました。

1950年にモスクワ大学法学部に入学し、在学中の1952年にソ連共産党に入党しました。大学卒業とともにライーサ・チタレンコと結婚し、その後は故郷で党の青年組織の一員として活動しました。それらの一連の活動の結果、1971年にはソ連共産党の中央委員に選出されました。

中央委員に選出後も順調に党内でのキャリアを積んだゴルバチョフは、1980年に当時のソ連の政策決定機関である政治局の局員に抜擢され、その後当時のソ連の最高指導者であったブレジネフ書記長の死去に伴い、その後を引き継いだ指導者たちを補佐する第二書記として事実上の国政のNo.2と目されるようになりました。

当時のソ連は長年にわたる一党独裁や停滞の時期の中で官僚たちの腐敗が目立ち、経済面でもその停滞ぶりが国民生活を直撃するという深刻な状況でした。このような中でゴルバチョフは改革の必要性を痛感し、次第に改革派として注目を浴びるようになっていきました。

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ゴルバチョフ書記長の誕生

クレムリン

改革の必要性を痛感し、強く主張してきたゴルバチョフに転機が訪れたのは1985年に入ってからのことでした。この年の3月、それまで書記長としてソ連を率いてきたチェルネンコが亡くなり、ゴルバチョフがその後を受けて54歳にして書記長に選出されることとなりました。

このゴルバチョフ書記長の誕生は、ソ連の国民の間でも大きく歓迎されました。というのは、それまでのソ連の最高指導者の多くは高齢の人物ばかりで、そのうえ改革がまったくなされることなく放置されてきました。そのうえ、1979年から始まったアフガニスタンでの長引く戦争もソ連経済や国民生活に悪影響を与えている状態で、この若い指導者に対する期待が非常に高かったといえます。

書記長に就任したゴルバチョフはまず人事面の改革に着手します。党の主要なポストに自分と同年代の若い人材を充て、その一方で老齢の幹部は重要なポストから外すという内容でした。これにより、彼が行おうとしているソ連国内の政治的改革に必要な陣容を整えるとともに、地方の政治や軍関係の人事についても大胆に若手への入れ替えを行いました。

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ゴルバチョフとペレストロイカ

ゴルバチョフの行った一連の改革を総称してペレストロイカ(ロシア語で「再建」)と言いますが、実際に着手したのは書記長就任の翌1986年4月のことでした。その柱には大きく分けてグラスノスチと経済改革とがありました。

グラスノスチ

彼はまず、この時期に起きたチェルノブイリ原発事故を受けてグラスノスチと呼ばれる情報公開を推進し、政治や行政関係の情報を必要に応じて公開するようにしました。さらに、一部ながらテレビや新聞の紙面上で政治体制に対する批判や指摘を可能にしたり、党が統制・関与しない市民団体の結成も認められるようになっていきました。グラスノスチはまもなく国民の民主化要求の拡大、ひいてはソ連の崩壊にもつながっていきます。

経済改革

当時のソ連において喫緊の課題が経済問題の解決でした。長引く一党独裁や計画経済、軍拡などの影響は国民生活にも深刻に作用していました。特に計画経済に伴う深刻な物資不足の影響で国民の間にはソ連共産党や政府への不満が渦巻いていました。

そこでゴルバチョフはまず個人での営業や協同組合を公認し、それをきっかけにそれまでの社会主義に基づいた計画経済から市場主義経済への転換を図る政策を推進していきました。それは単なる経済改革に収まらず、ソ連の体制そのものを抜本的な改革で刷新することも目的としていました。

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ゴルバチョフの新思考外交

ゴルバチョフのペレストロイカは外交面にも及び、彼の考え方に基づいたソ連外交を「新思考外交」といいます。

「新思考」とは、「全人類の共通利益を追求することが自国の利益にもつながる、すなわち世界の安定が自国の安定にもつながる」という考え方のことで、彼の行った新思考外交の具体的な内容は、アフガニスタンからの撤退や冷戦による東西世界(資本主義陣営と社会主義陣営)の対立の解消、東欧地域の民主化の推進とドイツ統一への取り組みなどが挙げられます。

この外交政策は、つまるところ軍縮を推し進めることで軍事費を縮減しソ連経済を建て直すという現実的な課題も関わっていました。新思考外交がペレストロイカの一環とみなされるのはこのような事情があったためです。

この外交政策の結果、1989年にはドイツのベルリンの壁が崩壊し、ソ連の影響力の大きかった東欧各国では民主化革命が進み、各国で共産党独裁体制が終わりを告げました。さらに、翌1990年には第二次世界大戦の終結以来40年以上にわたって分断されていたドイツの統一も達成されました。

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ゴルバチョフと冷戦の終結

ベルリン

ゴルバチョフの外交政策である新思考外交の中でも重要な課題の1つが冷戦の終結でした。第二次世界大戦の終結以後、40年以上にわたって世界の主要な国々がアメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連を中心とする社会主義陣営とに分かれて対立する冷戦(冷たい戦争)の状態が続いていました。

また、冷戦の長期化の中でアメリカとソ連は競うように軍拡、特に核兵器の配備を進めたうえ、それぞれの陣営に属す主要な国の中にも核兵器の配備が行われたため、何らかのきっかけで再び世界大戦が起こり人類が滅亡する懸念がありました。

このような冷戦状態の解消に向けてゴルバチョフは軍縮の推進を提案するとともに、西側諸国との関係改善にも着手します。さらに西側諸国の盟主であったアメリカとも核軍縮交渉を重ね、1987年には中距離核戦力(INF)全廃条約を調印しました。さらに1989年にはマルタ島でジョージ・ブッシュ(父)大統領と会談を行い、冷戦終結の宣言を共同で行いました。

一連の外交政策により、東西対立が原因で世界中で生じていた紛争は終結もしくは鎮静化に向かい始め、東西陣営の政治的対立もまた解消されました。

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ゴルバチョフとソ連崩壊

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ペレストロイカやそれに伴う東欧の民主化、東西の冷戦状態の解消という成果を残したゴルバチョフでしたが、その一方でそれまで指導的な存在だったソ連共産党、ひいてはソ連の影響力は大きく衰えました。そのことが原因でソ連邦に所属する国々で独立に向けた動きが活発化してきました。

ソ連国内では1990年に複数政党制や大統領制の導入が行われ、ゴルバチョフは大統領に選出されました。一方で改革をめぐりソ連共産党内部で対立が激化し、党内は改革派(穏健派と急進派)と保守派*に分かれました。この影響で経済改革もなかなか進展しないという事態に直面しました。

1991年6月、改革派の中でも急進派だったボリス・エリツィンがロシア共和国大統領に選出されました。このことを受けたゴルバチョフはソ連邦を構成していた各共和国にソ連邦が持っていた権限を大幅に委譲して、国家体制の再編を目指すようになりました。

しかし、この動きに対して1991年8月に共産党保守派がクーデターを起こし、ゴルバチョフを軟禁して国家再編の動きを阻止しようとしましたが、エリツィンら改革派の抵抗もあり失敗します。この影響でソ連共産党は解党に追い込まれ、以後は各共和国の独立が相次ぎ、それらの集まる独立国家共同体が結成され、ついに12月にはゴルバチョフの辞任とともにソ連の崩壊に至りました。

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ゴルバチョフ書記長の政策ペレストロイカやソ連崩壊までのまとめ

ゴルバチョフの生い立ちとペレストロイカ、そしてソ連崩壊までの流れを見てきました。長きにわたる一党独裁と計画経済による行き詰まりを打破しようとゴルバチョフが行ったペレストロイカは、ソ連そのものの体制の改革だけでなく、東西対立の解消や東欧の民主化などで大きな成果を残しました。

しかし、その結果ソ連という枠組みそのものが揺らぎ、ついには20世紀の大国だったソ連邦の崩壊という結果となりました。東西対立の解消やソ連邦の崩壊からすでに30年近く経ちますが、その背景にはゴルバチョフの行った改革のあまりにも大きな影響があったといえるでしょう。

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