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2018/01/23

オーストリア継承戦争とは?7年戦争のきっかけ?原因や流れは?

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オーストリア継承戦争やそれを取り巻く外交関係を解説

18世紀の半ばごろ、ヨーロッパ大陸の大国であったオーストリアでその帝位継承をめぐって周辺の国々をも巻き込んだオーストリア継承戦争が発生しました。この戦争が発生した原因や、戦争への参加国、流れ、終戦に導いたアーヘンの和約と実質上の勝者、そしてその後どのようにして七年戦争へとつながっていったかについて見ていきます。

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オーストリア継承戦争とは

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オーストリア継承戦争は1740年から48年にかけてオーストリアの大公位をめぐって起きた戦争です。当時のオーストリアは王女で唯一の大公位継承者であるマリア・テレジア(娘にマリー・アントワネット)の即位について国際的に承認してもらう過程で周辺諸国にさまざまな面で譲歩を行っていました。

しかし、マリア・テレジアが即位するときになって周辺諸国の多くがこれに反発、その結果、オーストリアでの継承問題がヨーロッパ全土を巻き込む国際的な戦争となっていきました。

ちなみに、オーストリア継承戦争は、複数のオーストリアとそれに敵対する各国との戦争をいくつもまとめた呼び方です。そのため、当記事では流れを理解しやすくするために細かいレベルの戦争の名称にも触れつつ、内容を進めていきます。

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オーストリア継承戦争の原因

オーストリア継承戦争の主な要因となったのは、オーストリア大公ハプスブルク家の継承問題でした。この時代のハプスブルク家は、すでに統一性は失われたものの全ドイツに君臨する神聖ローマ帝国の皇帝を輩出する名門でありヨーロッパ屈指の大国でした。

そして、この戦争はハプスブルク家の当主で、時の神聖ローマ皇帝でもあったカール6世になかなか子宝が恵まれないことが発端となりました。まもなくこの皇帝に女子が誕生、このことを喜んだカールはマリア・テレジアと名付けられた子供にオーストリアの大公位を継がせようと考えます。

男子継承が常識とされていた当時、カールは周辺諸国に娘の大公位継承を認めさせようと領土の割譲などという手段で譲歩を行い、どうにか認めてもらうところまでこぎつきました。しかし、カールが亡くなりマリア・テレジアが即位するということになった途端、周辺諸国は一転してこれに反発、オーストリアは周りに敵を抱えての戦争をする羽目になりました。

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オーストリア継承戦争の参加国

オーストリア継承戦争に参加した国々は当時のヨーロッパで大国として存在感を示していた国々のほとんどが参戦したといっても過言ではありません。ひとまずここでは状況を理解しやすいようにオーストリアに味方した国と、敵対した国とに分けて参加国について見ていきます。

まず、オーストリア側には、イギリスやオランダ、ロシアがこれを支援しました。あとで見るようにこの戦争でオーストリアに対して特に敵対的だったのがフランスであるため、それと対立している状況にあったイギリスとオランダはそのままオーストリアに味方し、ロシアもプロイセンの脅威を除くためにオーストリアを支援したというのが真相です。

一方、オーストリアに敵対することとなったのがフリードリヒ2世大王率いるプロイセンやフランス、神聖ローマ帝国を構成していた主要国であったザクセンやバイエルン、ロシアと敵対していたスウェーデンなどが挙げられます。

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オーストリア継承戦争の流れ

戦争

オーストリア継承戦争は先ほども触れたことですが、実に細かいレベルの戦争をまとめた呼び方です。そこで、それらの戦争に即して全体の流れを見ていきます。

第一次シュレジエン戦争

最初はオーストリア北東部にあるシュレジエン地方の領有を巡って、1740年から41年にかけてオーストリアとプロイセンとの間で発生した第一次シュレジエン戦争が挙げられます。シュレジエン地方は大炭田があって豊富に石炭がとれるうえ、経済的にも重要な土地であり、プロイセンは以前からこの地方を狙っていました。

プロイセン王となったばかりのフリードリヒ2世(大王)はオーストリアのカール6世が亡くなったと聞くや、軍をシュレジエンに差し向けてオーストリアとの戦争状態に入りました。もちろんのこと、マリア・テレジアもこれを黙って見過ごすということはなく防衛軍を差し向けたため、決戦に持ち込まれました。

この決戦でプロイセン軍はオーストリア軍に大勝し、そのことが呼び水となって他の周辺諸国がプロイセンに味方するようになります。そこでマリア・テレジアはなるべく敵を減らすためにシュレジエンをプロイセンに割譲*せざるを得ませんでした。

オーストリア・バイエルン戦争

ハプスブルク家と同じく神聖ローマ皇帝になる資格を持つバイエルンもカール6世没後の皇帝の座を狙っていました。マリア・テレジアの即位に反発し、1741年にフランスと手を組んだうえでオーストリアと戦争になりました。翌年、オーストリアの一部をフランスとともに占拠したバイエルンの君主が神聖ローマ皇帝カール7世として即位します。

そこで、マリア・テレジアは自らハンガリーの貴族たちに支援を依頼、そこで感動的な演説の末に援軍を得ることに成功します。こうして、バイエルン軍の撃破に成功した彼女は、1745年に夫であるフランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝位につけることにも成功しました。

第二次シュレジエン戦争

バイエルン軍を撃破してある程度戦況が好転したのもつかの間、今度は一度戦火の収まったはずのシュレジエンを巡って再びプロイセンと戦争になります。プロイセンも第一次シュレジエン戦争の終結後に成り行きを見守っていましたが、オーストリアやそれを支援する国々に有利な状況になり始めていることに危機を覚え始めていました。

そこで1744年、苦戦を強いられていたカール7世を支援するという名分でベーメンに侵攻します。しかし、オーストリア軍は巧妙にプロイセン軍をベーメンから撃退し、一方のプロイセン軍も皇帝カールの死や現地での物資調達がうまくいかなかったこともあり窮地に陥ります。

ただ、そのあとは持ち前の軍隊の強さを発揮したプロイセンがオーストリアに対し勝利を重ね続け、1745年末のドレスデンの和約でシュレジエンの領有に成功します。なお、国際的にこのことが承認されるのは1748年のアーヘンの和約によってです。

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オーストリア継承戦争を終わらせたアーヘンの和約

オーストリア継承戦争は1748年に結ばれたアーヘンの和約によって終結を見ました。この和約はフランスがオーストリアやそれを支援したイギリス・オランダなどと結んだことになっています。

これは戦争中にフランスもまたドイツの西側に侵攻してオーストリアやイギリスと戦ったうえ、海外植民地を巡ってイギリスとも争っていたためでした。

その内容はまず、マリア・テレジアがオーストリア大公位への即位することや、その夫であるフランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝に即位することが国際的に認められたこと、プロイセンのシュレジエン領有が承認されたこと、オーストリアはフランスの同盟国であったスペインに一部の領土を割譲することなどが挙げられます。

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オーストリア継承戦争の勝者は?

オーストリア継承戦争の勝敗は果たしてどういう結果になったのでしょうか?それは、各参加国がどのくらいのものを得たかによって判断することができます。

まず、オーストリアは一部の領土を失ったものの、主要な領土は確保できたうえ、マリア・テレジアのオーストリア大公位と、その夫の神聖ローマ皇帝への即位もどうにか可能ということになりました。

一方のプロイセンはフリードリヒ2世の手腕によって経済面で非常に有益な位置にあるシュレジエン地方の領有に成功したうえ、それまで存在感が薄かったプロイセンがヨーロッパ有数の大国として脚光を浴びるもとを作りました。

このほか、オーストリアを支援したイギリスもカナダやインドでの海外植民地の拡大に成功しています。

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その後の7年戦争の原因となったシュレジエン

このようにマリア・テレジアがハプスブルク家の当主、ひいてはオーストリアの君主への継承することがひとまずなったということで一応の決着を見たように見えるオーストリア継承戦争の結果ですが、実はこれで終わったわけではありません。というのも、戦争の過程でオーストリアはプロイセンにシュレジエンを奪われたためです。

それまでのプロイセンといえばそれほど存在感もなく、オーストリアにとっても同列に扱ってもきませんでした。むしろ、プロイセンを下に見てきたという経緯もあることから、なおさらシュレジエンの奪回に向けて執念を燃やし、軍備強化などを行うようになります。

その結果、アーヘンの和約が締結され、オーストリア継承戦争が終結してから10年も経たずして再びシュレジエンを巡ってオーストリアとプロイセンの間で戦争が起こることとなります。これが7年戦争ですが、オーストリア継承戦争の場合と同じように周辺諸国を巻き込む国際戦争が再発することとなりました。

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オーストリア継承戦争とは?7年戦争のきっかけ?原因や流れは?のまとめ

オーストリア継承戦争はオーストリア大公である名門ハプスブルク家の相続問題がヨーロッパ全土を巻き込む戦争に発展したものです。

ただ、単なる相続をめぐる戦争というだけではなく、そこには当時の国際関係が複雑に絡み合ってもいました。それがなおさらこの戦争をめぐる複雑さに拍車をかけていたともいえます。

一見すると、単なる近世ヨーロッパ史の一戦争にすぎませんでしたが、そこには大国同士の駆け引きが見られてもいました。

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