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2018/04/13

東インド会社とは?誕生と栄光、衰退の流れや世界情勢をわかりやすく解説

歴史の教科書によく登場する東インド会社。実は近代史で大きな役割を果たした組織でした。今回はイギリスだけでなくオランダやフランスが設立した東インド会社という組織を見ていきます。加えて、彼らのマークであるVOCや、今も語られない日本との関係、拠点とした場所、紅茶など運んでいた品物についても見ていきます。

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目次

東インド会社の概要

歴史の教科書で大航海時代の頃からの部分に触れたとき、「東インド会社」という組織について耳にした方も多いでしょう。この東インド会社とは、17世紀から19世紀にかけてイギリスなどヨーロッパの主要な国家が東方(インドや中国、東南アジア)での貿易活動のために設立・運営していた組織のことです。ちなみに、「東インド」とは当時はヨーロッパよりも東側の地域を指しておりました。

ただし、「会社」と銘打っていても。各国の政府が作ったというだけあって、その実態は国益を確保・拡大するための組織でもありました。そのため、当初は貿易活動だけに従事していたのが、まもなくインドや東南アジアを舞台にした各国の海外植民地獲得競争の担い手としての活動にも手を出すようになっていきました。

各国の海外植民地をめぐる競争はまもなくイギリスとフランスの2国の間で特に激しいものとなりますが、次第に産業革命をいち早く成し遂げたイギリスが優勢となっていきます。まもなく、フランスの東インド会社は18世紀末のフランス革命の最中に存在感を失い、同じころオランダの東インド会社も解散することになりました。

残るイギリスについても、19世紀前半にインドの植民地化の主要な担い手として活動しましたが、一方で産業革命に伴って自由貿易を望む声が上がる中で衰退し、1858年のイギリス領インド帝国成立とともに解散することになります。

このように、各国の東インド会社は植民地獲得競争の時代の幕開けとともに生まれ、そして植民地経営や商業の担い手が国家や市民にとって代わるとともにそれに後を譲る形で消滅していった組織でした。ただ、実は歴史上はじめての会社ともいわれたため、その点から考えると現在の経済のあり方にも大きな影響を与えている組織といえるでしょう。

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イギリス東インド会社とは?

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東インド会社と聞くと、多くの方がイギリスのものをイメージするでしょう。イギリスの東インド会社は1600年、当時の女王でイギリスを他のヨーロッパと同じような強国にまで押し上げたエリザベス1世の命令によって設立されました。

イギリスの東インド会社の当初の主な活動は、大航海時代の頃から注目され始めた東南アジアの香辛料を元手とした貿易に従事することでした。しかし、東南アジアでの貿易には早くも暗雲が立ち込め始めていました。

同じころオランダも東インド会社を設立し、イギリスと同じように東南アジアの香辛料貿易に進出していたため、早くも熾烈な競争が生じていいたためです。ついには1623年にインドネシアのアンボイナに設置していた商館がオランダの襲撃を受けるという事件が起こり、その頃からイギリス東インド会社は活動地域をインドに移しました。

その頃のインドはムガル帝国の時代でしたが、まもなくムガル帝国の勢力が衰えるとイギリス東インド会社はインドの地方勢力と手を結び勢力を拡大し始めます。勢力拡大の目的として、インドにおける貿易を独占が挙げられます。このため、当初は後にいわれるような植民地の獲得というのは視野にはありませんでした。

しかし、同じころフランスの東インド会社もインドに進出してきていたため、まもなくイギリス側と衝突、1757年にはプラッシーの戦いが発生します。この戦いに勝ったイギリス東インド会社はもはやインド貿易を完全独占する存在となったとともに、ムガル帝国や在地の地方勢力に変わる事実上のインドの支配者へと変質していきました。

ただし、その一方で東インド会社の貿易活動は次第に衰退し始めます。その背景には、18世紀から19世紀にかけてイギリス本国で進行した産業革命の結果、多くの資本家が貿易活動に進出し始めたことが挙げられます。彼らが力を持ち始めた結果、貿易を独占する東インド会社への批判が集中し、ついにはイギリス政府の手によって独占貿易から手を引くこととなりました。

そして、インドの方でも東インド会社のやり方に不満を持ったインド人傭兵が蜂起し、セポイ大反乱という形でインドの民衆を敵に回すことになりました。どうにか武力でねじ伏せたものの、イギリス政府はインドを直接統治する方針に切り替え、翌年のイギリス領インド帝国の成立を持って東インド会社は解散しました。

オランダ東インド会社とは?

オランダの東インド会社はイギリスで設立された2年後の1602年に設立されました。当時のオランダはスペインから独立を勝ち取ったものの、その戦争の過程で貿易でも大きな損失を被っていました。そこで、独自でアジアへの航路を開拓し、そこで得られる香辛料で莫大な利益を得ようとしたのが東インド会社の設立の狙いでした。

この目的のため、オランダ東インド会社は早速東南アジアでの香辛料貿易に従事することになります。在地の国々や、同じく香辛料貿易のために進出したイギリスとの熾烈な競争を展開する一方で、当時江戸幕府が成立した日本とも長崎の出島を経由して関係を持っていました。まもなく1623年のアンボイナ事件をきっかけにイギリスは東南アジアでの香辛料貿易から手を引き、ここにオランダによる香辛料貿易の独占体制が確立することになります。

やがて、拠点をジャワ島に設けたオランダは、ここを中心にインドネシア全域に影響力を広げていくことになります。ただし、全体としてはイギリスやフランスとの植民地競争で押され気味になってきており、ついには18世紀末のフランス革命のさなかにオランダ本国がフランスの革命軍に占拠され、海外領土を喪失する事態に直面します。

しかし、その後ナポレオンが倒れた後に独立国家としてのオランダは復活、インドネシアにおける海外領土も回復し、まもなくこの地に世界史上初のプランテーションを開拓し、本格的にインドネシアの植民地化に乗り出すことになります。

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フランス東インド会社とは?

フランスの東インド会社は1604年に設立されましたが、本格的な活動はおよそ50年後のルイ14世の時代になってからのことです。ルイ14世はフランスの国力強化の一環として東インド会社による海外拠点の確保や貿易活動にも力を注ぎました。

まもなく、フランス東インド会社はインドの東南部にも拠点を獲得して進出しますが、そこには東南アジアから手を引き本格的に活動し始めていたイギリス東インド会社もいました。当時はイギリスとフランスはともに海外植民地をめぐる競争を熾烈に展開していたため、インドにおいても両国の東インド会社は激しく激突することとなりました。

当初インドでの競争はフランス側が有利でしたが、まもなくイギリス側が巻き返しをはじめ、ついには1757年のプラッシーの戦いで敗北を喫します。こののち、南インドにおいても戦争に敗れたフランス側は、1763年のパリ条約で多くの植民地を喪失したことと度重なる戦争の中で船舶の多くを失ったことで活動ができない状態にまで追いやられました。

まもなく国内での度重なる失政がきっかけでフランス革命が勃発し、その混乱のさなかで解散するに至りました。

東インド会社の誕生の背景や栄光、衰退

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各国の東インド会社はいずれも17世紀から19世紀に活動し、消滅していきました。ここで、東インド会社がどのような背景で誕生し、アジア地域とどのような関係をもち、最後はどのような背景の中で消滅していったのかを見ていきましょう。

誕生前の世界

各国の東インド会社が設立したのは17世紀初頭のことでした。これよりも前の世界は、大航海時代の中でアジア方面への航路が開拓された時代でした。とりわけ、バスコ・ダ・ガマによるインド航路の開拓や、マゼラン一行やフランシス・ドレークらによる世界一周は当時のヨーロッパ人の目を世界に向けることとなります。

その中でもスペインとポルトガルは世界各地に進出、両国とも広大な海外植民地を手に入れることになりました。しかし、16世紀の後半には両国とも他国との戦争の敗北などが原因となって衰退したため、それに代わってイギリスやオランダが勢力を広げることとなっていきました。

誕生時の世界

このため東インド会社が各国で設立されたころの世界は、スペインやポルトガルの力が衰え、かわってイギリスやオランダが世界各地、特に東南アジアやインドに進出し始めた時代でした。

両国とも香辛料の獲得とそれを元手にした貿易で利益を上げようと躍起になっていたため、当然ながら熾烈な競争が生じます。間もなく1623年のアンボイナ事件をきっかけにオランダ東インド会社は東南アジアを、イギリス東インド会社はインドを主な活動の舞台としていきます。この時点では両会社ともそれぞれの活動地で独占的な貿易を行うことで莫大な富を得ようというのが主目的でした。

しかし、時同じくして各国間では植民地競争が発生し、これらの会社もまたその植民地競争の担い手と位置づけられるようになっていきます。加えて、フランスでもルイ14世の手によって東インド会社が設立され、やがてインドにおいてイギリスと熾烈な競争を展開するようになっていきました。

アジア諸国との関係

ここで、各国の東インド会社が関わったアジア諸国との関係を見ていきましょう。

オランダ東インド会社が主な活動地域としたインドネシアでは、当初オランダ東インド会社側が在地の各国から商館建設の許可を得る形で進出していました。しかし、まもなくより大きな利益を得るために現地での領土獲得にも力を入れ始めました。

当時のインドネシアにはさまざまな王朝がそれぞれ領土を持っていましたが、これらの国家は時に対立や戦争を繰り返していたため、オランダ東インド会社はそれに付け込んでこれらの戦争に介入し、各国の国力を衰えさせることで進出を可能にしていきました。

一方のイギリスやフランスの東インド会社は、インドのムガル帝国の衰退とそれに伴う地方勢力の台頭という情勢下で勢力を伸ばしていきました。両会社とも地方勢力と手を結び、その地の太守から貿易上の特権を得るという形で勢力を広げていきますが、やがて両国の競争は軍事行動を伴った戦争にまで発展します。この戦争を制したイギリス側がやがてインドへの支配権を強め、ついには19世紀半ばにインド全域を植民地にするに至りました。

日本の出島との関係

各国の東インド会社の動きは実は日本にもさまざまな影響を与えました。とりわけオランダの東インド会社の動きは当時江戸時代を迎えた日本と密接な関係を築くに至ります。

最初のきっかけは1600年のオランダ船リーフデ号の漂着でした。この際に乗組員だったウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)らは大坂にて当時豊臣家五大老筆頭だった徳川家康の謁見を受け、やがて彼は家康の外交ブレーンとして活動するようになります。その時の家康とアダムスらとの関係が、やがて江戸幕府体制下での鎖国政策において中国とともにオランダが交易相手として認められるきっかけになりました。

ちなみに鎖国体制下での貿易の窓口は長崎の出島でした。出島経由での貿易ではヨーロッパの文物として香辛料や薬、織物、象牙などが輸入されたほか西洋の学問関係の書籍も入ってきていました。なお、当時の西洋の学問は蘭学と呼ばれ、18世紀の後半には杉田玄白らによって翻訳されたオランダの医学書が「解体新書」という形で世に出されています。

一方の日本からの輸出品として銀や銅、陶磁器、漆器などが挙げられ、特に銀や銅はその質の高さからヨーロッパ各国で珍重されました。このほか、出島のオランダ商館からは定期的に幕府に対し西洋の最新情報を記した報告書が提出されており、特に江戸時代後期には幕府首脳部はこれを通じてアヘン戦争での清王朝の敗北などを知り、国防に力を注ぐようになります。

衰退時の世界

東インド会社は18世紀から19世紀にかけて、衰退、そして消滅していきました。この時代背景にはイギリスで発生した産業革命や、それに伴う自由貿易の推進、さらに社会情勢の激変が挙げられます。

イギリスに関しては産業革命を通じて影響力を持ち始めた資本家や企業が、東インド会社による旧態依然の貿易独占の状況に批判の声を上げ始めていました。そのため、当時のイギリス政府も彼らの声を無視することができなくなり、19世紀前半には東インド会社に認められていた貿易独占権が次々と失われていきました。加えて、1857年のセポイ大反乱を通じて東インド会社のインド統治能力のなさを痛感した政府は、ついに東インド会社の解散を決断することになります。

一方のフランスやオランダの東インド会社については衰退の背景が少し異なります。両国とも度重なる戦争によって利益や船舶を損失した結果、債務ばかりが積み重なったことが衰退の大きな原因でした。加えて、18世紀末にフランスで発生した革命によって両国の東インド会社はその維持すらも困難となったことで、ついには解散するに至ります。

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東インド会社が運んでいたものとは?

17世紀から19世紀にかけて活動した各国の東インド会社ですが、彼らがヨーロッパに運んだものにはどのようなものがあるのでしょうか。

香料・香辛料

東インド会社が運んだおもなものといえば、東南アジアで豊富に採れる香辛料や香料が挙げられます。現在でこそコショウなどといった香辛料は私たちの食卓の料理に当たり前のように使われますが、この時代は現在ほど航海術も発達していなかったうえ、ヨーロッパではその気候的な条件から香辛料や香料を自前で確保することは不可能でした。

そのうえ、香辛料や香料は食材の保存や料理のスパイスとしてだけでなく、医学的な効果も認められていました。もちろん、それを手に入れることができたのは主に上流階級の人々に限られていましたが、やがて彼らが本国のみならず世界全体での香辛料や香料利用の担い手となっていきます。ちなみに、私たちがよく食べるカレーも明治時代にイギリスのインド総督が日本に紹介したのがきっかけで普及したものです。

インドの綿織物

インドで活動したイギリスの東インド会社の手によってヨーロッパにもたらされたのがインド産の綿織物です。インドは古くから綿花生産が活発であるうえ、その質は非常に良く、村落では糸繰りの機械を用いて綿織物を生産していました。

非常に良質であることに加え、その売価は非常に安いためそこに目を付けた東インド会社は大量に買い付けて本国に輸送していました。本国の国民もインドからもたらされる綿織物をこよなく愛していましたが、これに対し当時のイギリスの織物業界は危機感を抱きます。

そこで彼らが考えたのが、当時の産業革命の流れの中で発明された大量生産できる機械を用いて綿織物を生産することでした。大量生産が簡単にできるためインド産のものよりも安く仕入れることができるということで、逆にインドにも輸出されることになりました。やがてこの流れがインドの綿織物産業を破壊していくことになります。

紅茶

実はお茶を飲むという文化もヨーロッパで発生したものではなく、各国の東インド会社の活動の結果もたらされたものです。お茶といえば、今でこそイギリスなどに根付いている飲み物ですが、もともとはオランダの東インド会社が日本との関係の中で得たものでした。

そして、イギリスでよく飲まれる紅茶もイギリス東インド会社が中国との貿易を通じてもたらした大量の緑茶が元になっています。中国から大量にもたらされた緑茶を本国の人々が改良を重ねて生み出されたものが紅茶です。

なお余談ですが、紅茶のブランドとして有名なアッサム種やダージリンは19世紀になってからイギリス人の手によって発見され、こちらもインドがイギリスの植民地になってから開設された農園で大量に生産されることになりました。

東インド会社が発行していたモハール金貨とは?

イギリスの東インド会社が発行していた金貨というものが存在します。それがモハール金貨と呼ばれる貨幣で、もともとは東インド会社がインドに進出するはるか昔、16世紀前半のムガル帝国の時代から流通していました。

16世紀前半のムガル帝国の時代といえば、帝国の最盛期を築いた第3代アクバル大帝よりも前の時代ですが、帝国の勢力が盤石のものになるにつれてインドで最も価値の高い貨幣という扱いとなっていきました。しかし、その後ムガル帝国が衰退するにつれて、その鋳造権はイギリス東インド会社が握るようになっていきます。

ちなみに、イギリス東インド会社が鋳造・発行したモハール金貨には当時のイギリス国王(ウィリアム4世やヴィクトリア女王など)の肖像が、裏面にはイギリス王室を象徴するライオンが彫刻されています。なお、イギリスの植民地になった後はインドで流通する唯一の硬貨とみなされていました。

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東インド会社のマーク「VOC」とは?

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江戸時代の日本の伊万里焼で海外で出土したものの中に「VOC」という謎のマークが刻印されているものがあります。実はこの「VOC」というのは、オランダの東インド会社を示す略称です。

オランだの東インド会社はオランダ語での正式名称が「Vereenigde Oostindische Compagnie」という表記でした。この表記は1602年の設立の頃から用いられており、そのため鎖国されていた江戸時代の日本との交易の際にも伊万里焼などを輸出する際にこのような略称のマークが施されていました。

いわばこれらの陶磁器に施された「VOC」マークは、当時の日本とオランダとの交易が活発だったことの証しであるといえるのです。

東インド会社とは?誕生と栄光、衰退の流れや世界情勢をわかりやすく解説のまとめ

17世紀から19世紀にかけて世界を舞台に活躍した東インド会社について見てきました。各国の東インド会社とも、ヨーロッパが世界に進出する最中で各国の利益拡大と海外植民地獲得の担い手として活動してきました。やがて、18世紀から19世紀にかけての革命や自由貿易、産業革命の時代の到来とともにその役割を終える形で歴史から姿を消すに至ります。

ただ、彼らの活動は単にヨーロッパ諸国の植民地獲得という結果をもたらしただけでなくアジアの文物をヨーロッパに多くもたらし、新たな文化の創出にもつながりました。その点では彼らの持つ歴史的な意義は決して小さくないものといえるでしょう。

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