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2018/04/13

東西冷戦とは?きっかけや原因、参加国影響をわかりやすく簡単に!

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目次

東西冷戦は第二次世界大戦後、ほぼ半世紀の世界動向を左右した「冷たい戦争」です。

ここでは、東西冷戦が冷戦と呼ばれる理由、その名前の由来、戦いが生じ拡大したきっかけや参加国について説明します。

また東西冷戦の世界の体制への影響や、その終結の状況についても解説します。

東西冷戦とは?名前の由来も

東西冷戦(東西冷戦)とは、1945年から1989年までの44年間続いた、アメリカを中心とする西側資本主義諸国と、旧ソビエト連邦(ソ連)を中心とする東側社会主義・共産主義諸国の間に起こった「戦争」状態のことです

この戦争は、東西両陣営が軍事力を使用して直接戦火を交えることはなく、核戦力をちらつかせながら際限のないにらみ合いを続けたため、「冷戦」あるいは「冷たい戦争」と呼ばれることになりました

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東西冷戦のきっかけや参加国

第二次世界大戦末期の1945年2月4日から11日にかけて、当時のソ連のクリミア地方ヤルタ近郊のリヴァディア宮殿において開かれた、連合国側のアメリカ・イギリス・ソ連による首脳会談(ヤルタ会談、Yalta Conference)で、戦後の国際政治体制に関する取り決めが行われました

アメリカ合衆国大統領のルーズベルト、イギリス首相のチャーチル、ソ連共産党指導者であるスターリンがこの会談に出席しました。

ヤルタ会談によって、ポーランドの国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東ヨーロッパ諸国のさまざまな戦後処理が取り決められました。

枢軸国だったドイツは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国によって分割占領されることが決まりました。

ソ連の占領区域にあった首都ベルリンは、東半分をソ連が、西半分を他の3カ国が統治することになりましたが、間もなくベルリンの4カ国管理理事会は機能しなくなり、東西ベルリンの分裂が事実上確定してしまいました。

ドイツ全土においても、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の分割状態が固定化してしまいました。

さらに1948年頃からはじまったソ連の核兵器の開発によってさらに緊張は高まり、1949年4月にアメリカなど西側陣営は北大西洋条約機構(NATO)を結成して、ソ連包囲網の構築を開始しました。

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東西冷戦の拡大

第二次世界大戦で2,500万人以上という莫大な犠牲者を出したソビエト連邦は、戦後、自国の安全保障を特に重視するようになりました。このため、ドイツから解放した東ヨーロッパ諸国をソ連の影響力のもとに置こうとしました。

一方のアメリカは、ヨーロッパ全体に社会主義が広がることを防ぐため、1947年7月にマーシャル・プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表してヨーロッパの経済復興を急ぎました。

これに対抗してソ連は、東ヨーロッパ諸国との連携を強めるため、1947年9月にコミンフォルム(共産党情報局)を、さらに1949年1月にはコメコン(経済相互援助会議)という組織を結成します。

さらにアメリカとソ連は、それぞれの軍事同盟を結成し、対立を深めていきました。
1949年に西欧諸国によるNATOが誕生すると、東欧では1955年にワルシャワ条約機構(WTO)が結成されます。

こうしてアメリカとソ連の対立は世界を巻き込み、アメリカ中心の西側の資本主義諸国と、ソ連を中心とし中国などを含む東側の社会主義(共産主義)諸国の対立へと発展しました。

アジアでは、1949年に共産党政権が政権を執る中華人民共和国が成立したことで対立は深刻化しました。1950年の朝鮮戦争はソ連の正式な参戦はありませんでしたが、アメリカと中国が参戦し、東西陣営の事実上の直接対決となりました。

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東西冷戦、冷戦体制の深刻化

東西冷戦_2

東西両陣営が直接にらみ合い、場合によってはは直接戦火を交えるという状態は第一次インドシナ戦争や朝鮮戦争の停戦によって一応終わりを告げました。

しかし1950年代から東西両陣営のそれぞれが軍事同盟網を拡大し、核兵器の開発を競い、世界を二分して向かい合うという「冷戦」の状態が深刻化することになりました。

1953年1月、アメリカではドワイト・D・アイゼンハワーが大統領となり、封じ込め政策から、より積極的な対共産圏への攻勢を掲げたまき返し政策に転換しました。

その年、スターリンの死去を契機として東西両陣営の話し合いの機運が生まれ、1954年4月26日から7月21日にはインドシナと朝鮮問題でジュネーブ会議が開かれました。また1955年7月には戦後初の米ソ首脳が顔を合わせたジュネーブ四巨頭会談も開催されました。

続いて起ったキューバ革命に伴う1962年10月のキューバ危機では、核戦争の一歩手前というきわどいところまで事態が進行してしまいました。

これはソ連とキューバが結んだ秘密の軍事協定に伴い、ソ連が密かに核ミサイルや兵員・発射台・ロケット・戦車などを送ったのを偵察飛行で発見したアメリカがキューバを海上封鎖したことにはじまる一触即発の危機です。

アメリカが核ミサイル基地の撤去を迫り、ケネディ大統領がフルシチョフ首相との間で書簡をやり取りしながら、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わりました。

しかし新たに南北両ベトナムにおいて米ソ両陣営の対立が発生します。ベトナムの共産化はアジア全体の共産化につながると危機感を持ったアメリカは積極的に戦争に介入し、1965年からのベトナム戦争は、冷戦時代に発生した最も長期にわたる局地戦争となりました。ベトナム戦争は、東西冷戦を背景とした米ソの代理戦争でもあったのです。

第一次インドシナ戦争が終結した後も、北ベトナムが支援する南ベトナム解放民族戦線が南ベトナムで武力を用いた反政府活動を続けたため、アメリカのアイゼンハワー大統領は少数のアメリカ軍人からなる軍事顧問団を南ベトナムに派遣しました。

その後ケネディ大統領は軍事顧問団の規模を増大させることで事実上の正規軍の派兵を進め、さらにジョンソン大統領は大規模な正規軍を送ってベトナム戦争に積極的に介入しました。

東側の諸国は、北ベトナムに対して軍事物資支援を行うとともに多数の軍事顧問団を派遣しましたが、アメリカなどのように前面に出る形での参戦は行いませんでした。

ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し、社会に大きな影響を与え、1973年のパリ協定を経てニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させました。

その後も北ベトナム及び南ベトナム解放民族戦線と、南ベトナムとの間の戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終わりました。

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東西冷戦による世界への影響

東西冷戦の時代、アメリカとソ連は互いに競い合って威力の大きい核兵器を開発し続けました。核兵器の存在は双方にとって大きな脅威となり、核戦争への恐怖が世界中に広がっていきました。

このような軍備拡張路線はそれぞれの国の国民生活の犠牲によって成り立っていました。そのため東西それぞれの陣営で、社会の内部矛盾が表に現れ、それが深刻になって行きました。

その矛盾がより深刻だったのは東側陣営の方でした。特に西側と直接接する東ベルリンでは、東ベルリンの市民生活が西ベルリンのものに自由が少なく、物質的にも大きく遅れを取っていることがはっきりと分かったため、東から西への密出国者が相次ぐ結果になりました。

このような動きに対抗するため東ドイツ当局は1961年にベルリンの壁を建設し、ついに市民の自由な往来を禁止してしまいました。

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東西冷戦下の三つの世界

東西冷戦の時代には、西側自由主義陣営のことを第一世界、東側社会主義陣営のことを第二世界と呼びました。

またどちらの陣営にも属さないアジア・アフリカ・ラテンアメリカの国を第三世界といい、独自の政治的立場をとる存在として区別しました。

第一世界

第一世界とは、資本主義経済のもとで自由競争の市場経済体制をとる国々です。資本主義陣営あるいは自由主義陣営ともいわれています。

アメリカ合衆国に加えてイギリスやフランスなどの西ヨーロッパの諸国が主体になっており、アメリカ占領下にあった日本も含まれています。

当初はアメリカ合衆国の圧倒的な軍事力と経済力が第一世界を引っ張って行きました。フランスのド・ゴールのようにそれに反発する動きもありました。しかし後にはヨーロッパの統合の進展や日本の経済進出などで、西側諸国の強固なつながりは失われていきます。

第二世界

第二世界とは、経済体制は社会主義経済(市場における自由競争を否定し、計画経済による国家統制を採用)、政治体制では共産主義政党の一党独裁が行われているソビエト連邦および東ヨーロッパ諸国などです。社会主義(あるいは共産主義)陣営とも言われています。

中華人民共和国、北朝鮮、キューバなども社会主義国ですが、これらの国々はアジアやラテンアメリカに属していて「第三世界」としての要素の方がむしろ強い国々です。

この社会主義陣営の国々の食い違いは1960年代になると中ソ対立という形で噴き出して、東側陣営は一体感を失ってしまいました。

ソ連と中国はその後も混迷を続け、ソ連の崩壊と中国の資本主義経済への転換に伴って、第二世界は事実上消滅してしまいました。

第三世界

第三世界とは、西側諸国(第一世界)と東側諸国(第二世界)のどちらにも属さない国々で、第二次世界大戦後に新たに台頭したアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの新興国や開発途上国のことです。

第二次世界大戦後、あらたに独立したこれらの諸国は大挙して国際連合に加盟したので、国連総会においてもアメリカやソ連の意向が簡単に通らなくなってしまいました。そのことはアメリカやソ連の国連離れともつながっています。

しかし第三世界のリーダー役であったインドと中国(中華人民共和国)はその後国境問題で対立し、互いに軍事力増強に突っ走ってしまいました。

そして第一と第二の「二つの世界」に第三世界がからむという世界観も、1991年にソ連が崩壊したために解消され、世界を三分するような表現もまったく通用しなりました。

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東西冷戦の終結

東西冷戦_4

長く続く東西冷戦のおおかげで膨大に膨らんだ軍事費は、東西いずれの側の国々においても大きな負担となっていきます。

東側世界のリーダーであるはずのソ連においてさえ、重厚長大産業中心の産業構造からの転換が遅れ、経済は停滞し、西側諸国との間の生活格差が拡大して行きました。

そんな中、1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、こうした状況を打開しようと「ペレストロイカ」(ロシア語で「改革」の意味)を打ち出しました。

ゴルバチョフ書記長はこの方針のもとで、それまで一般の人々から隠されてきた情報を公開したり、経済の自由化を含む政治・経済システムの改革や、ソ連の歴史の見直しなどを実施しました。

ゴルバチョフ書記長はアメリカとの関係改善や核軍縮にも取り組み、1987年に米ソ両国は、実践配備された中距離核兵器の廃棄を目的とする条約(中距離核戦力全廃条約)を結びました。

アメリカとソ連の協調は、ソ連の同盟国であった東ヨーロッパ諸国の民主化の波に勢いをつけました。ポーランド(1989年6月18日)とハンガリー(1989年10月23日)における非共産党政権の成立、1989年11月17日のチェコスロヴァキアのビロード革命、1989年12月25日のルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊が、連鎖的に発生したのです。

そしてその波は、東西に分断されたベルリンにも及びました。東ドイツ政府は、1989年11月には、西ドイツとの自由な行き来を認めざるを得ないようになったのです。ベルリンの壁は、押し寄せてきた無数の人々の手によって壊されてしまいました。

こうして、建設から28年後の1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊します。翌年の1990年10月30日に東ドイツが西ドイツに編入するという形で、ドイツはひとつつの国家として再統一されました。

ベルリンの壁の崩壊から1カ月後、1989年12月2日から12月3日に地中海のマルタ島沖の船の上で開かれたマルタ会談(Malta Summit)にて、アメリカのジョージ・ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が、冷戦の終結を宣言しました

冷戦の終結は、ソ連の政治情勢にも大きな影響を及ぼし、連邦を構成する共和国が次々と独立を宣言するに至ります。そのような中で1991年12月25日ソビエト連邦は、ゴルバチョフ書記長の辞任と共に消滅しました

ソビエト連邦の消滅に伴い、東西冷戦は最終的に終局を迎えることになります。

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東西冷戦とは?きっかけや原因、参加国影響をわかりやすく簡単に!のまとめ

以上、駈け足で東西冷戦の歴史を紹介しました。

東西冷戦(東西冷戦)は無事終結し、アメリカとソビエトの核兵器による直接対決の可能性は大きく後退しました。しかしそれですべての戦争がそれで終わったわけではありません。

東西冷戦が終わった後に出現したのは、広大なグローバル化の波と、それに対抗するかのように発生した人種・宗教などが関係する民族紛争やたくさんのテロ事件です。東西冷戦が20世紀後半の世界情勢をコントロールしたのと同様に、この新しくて古い理屈に基づく戦争は、21世紀前半の世界を振り回し、たくさんの人々に悲しい思いを与えています。

私たちは東西冷戦とその終結の期間の間に、いったいどのような知恵を学んだのでしょうか?それとも歴史というものは、ただ単に過ぎ去って、忘れ去られるべきものなのでしょうか?

私たちは、歴史の波の大きなうねりにもっと敬意を持ち、もっといろいろなことを学んだ方がよいのかもしれません。

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